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阿部 文彦(早稲田大学) 『知覚の現象学』における自由論は、『存在と無』におけるサルトル哲学に対する原理的な批判、すなわち無としての対自の自由や対自と対他の交通不可能性に対する批判にもかかわらず(第三部、III自由)、内容的にはサルトルの自由論のラディカルな展開という姿を呈しているように思われる。「対他存在」「所与」「為す」といったサルトルの自由論に不可欠な概念(第四部、第一章「ある」と「為す」−自由)を媒介にして、両者の自由論の内容的な近さと遠さを考えたい。
谷口 佳津宏(南山大学) メルロ=ポンティの『知覚の現象学』の最終章は、サルトルの『存在と無』における自由論に対する批判を含むものと考えられるが、その批判の要点は必ずしも判明ではない。本発表では、サルトルとメルロ=ポンティの前期思想に焦点絞りながら、両者の自由についての考え方の異同を考える。
本郷 均 (東京電機大学) 周知のように、「言語」は、メルロ=ポンティの思考、とりわけ、中期から晩年のそれにとって、きわめて重要なテーマである。今回の提題では、言語と表現とをめぐる問題に一つの焦点を与えるため、芸術に関するメルロ=ポンティの議論を主題的にとりあげようと考えている。そして、可能ならば、この場において、サルトルの幾つかの論文に見られる言語に関する思考を併せて検討し、メルロ=ポンティとの比較を試みたいと考えている。 北見 秀司(フェリス女学院) サルトルの「共産主義者と平和」に素描された「語る主体」の変容の記述を中心に論を進める。サルトル哲学は「純粋主観の哲学」では毛頭なく、人と物が絡み合う「間世界」の次元でこの記述は行なわれている。「語る主体」は市場という万人にとっての「他者」を受け入れ「知覚する主体」を抑圧し沈黙に付すことで生まれる。一方、メルロ=ポンティの理論にあっては、社会的次元としての「他者」は、『見えるものと見えないもの』のノートにおける「見えないもの」の考察の中で触れられている。以上の点から両者のコミュニケーションの可能性を考察する。 |
