心の自然化
信原 幸弘(東京大学)
現在の分析哲学における心の哲学では、物的一元論が支配的である。物的一元論は心の自然化すなわち心を何らかの仕方で物的世界に位置づけることを目指す。心の自然化には、大まかに言って、三つの主要な問題がある。
第一に、心と脳の関係をどう捉えるべきかということがまず問題となる。これについては、心的状態を信念や欲求のような命題的態度とそれ以外の知覚経験や感覚経験のような状態に分け、後者は個別に脳状態によって実現されるのにたいし、前者は全体論的にしか実現されないことを論じる。また、このことから、命題的態度については消去主義が妥当する可能性があることもあわせて指摘したい。
第二に、心的状態のなかには志向性(表象作用)をもつものがあるが、そのような志向性がどのようにして自然化されうるのかということが問題となる。これについては、ある心的状態がある一定の志向的内容をもつということは、その心的状態が主体の生存に役立つようなある一定の機能(目的論的機能)をもつことであるというふうに、機能的な観点から答えを試みる。
第三に、心的状態のなかには感覚質(qualia)をもつものがあるが、そのような感覚質をいかにして自然化できるかということが問題となる。これは物的一元論にとって最も困難だと思われる問題であるが、これについては、感覚質を志向的内容に還元する志向説の立場に与することによって対処したい。志向説では、痛みの経験のような非志向的とされる心的状態の扱いが深刻な問題となるが、痛いという性質を客観化して痛みの経験を志向的状態として捉え直すことにより解決をはかりたい。
以上のように、本発表では、心の自然化をめぐる中心的な諸問題を私なりの立場から論じていきたい。
*参考文献として、発表の趣旨全体については、信原幸弘『心の現代哲学』勁草書房、1999年、また特に志向説と痛みの客観化については、信原幸弘「意識と機能主義」藤本隆志・伊藤邦武編『分析哲学の現在』世界思想社、1997年、所収、を参照していただきたい。
実在論の可能性と不可能性――ギブソンからメルロ=ポンティへ
長滝 祥司(中京大学)
表象主義によるAI研究が行き詰まりをみせたころ、ブルックスは「表象なしの知能」という発想を提出し、ギブソニアンたちに熱狂的にむかえられた。この理論が、知覚情報は環境に実在する、というギブソンのテーゼを強く支持するものだったからである。ブルックスのロボットでは、内部の複雑で"メンタル"な計算が排除され、行動がその都度のセンサーによる入力にたいして反射的になされていく。昆虫のような動作をする「表象なし」のロボットは、環境にたいしてきわめて安定していた。ところが、それ以上には発展せず「コックローチ・インテリジェンス」と揶揄された。ブルックスのこの挫折は、ギブソニアン・リアリズムでは人間の認知過程を言い尽くせないことをあらわすものともとれる。つまり、そこには人間の知覚や知能における創造性が欠如していたのである。環境の情報を「抽出する(pick up)」だけの昆虫とちがって、人間には情報を創造的に構成するという側面もある。
本発表では、人間の認知のもつ創造的側面についてギブソンの実在論とメルロ=ポンティの存在論――とくにゲシュタルトゥング概念――を比較しつつ考えていきたい。そのさい、AIをはじめとする最近の認知科学の動向を必要におうじて参照する。
*実在論にかかわるギブソンとメルロ=ポンティの類似と相違について、拙著『知覚とことば』(ナカニシヤ出版)第4章をご覧ください。また、認知科学と哲学については、「身体の世紀へむけて――認知科学を哲学する」『月刊言語』大修館書店(1999年7月号から12月号)もあわせてご覧ください。
認知主体の身体化−−Enaction理論とメルロ=ポンティ
能川 元一(大阪大学)
F.J.ヴァレラ、E.ロッシュ、E.トンプソンの共著『身体化した心 The Embodied Mind』は、冒頭で彼らの議論がメルロ=ポンティの「リサーチ・プログラム」の今日における継続であることを宣言している。実際、彼らが提唱する認知科学へのEnactionアプローチは、いくつかの重要な点でメルロ=ポンティの知覚理論と共通点をもつ。
ヴァレラらは認知を"認知主体から独立した世界についての表象(の処理)"としてとらえる発想を批判し、認知をenaction、すなわち身体化した活動embodied actionとして理解することを提唱している。認知科学における「表象」概念の批判はメルロ=ポンティの主知主義批判と趣旨を同じくするものであり、認知主体から独立した世界という想定はメルロ=ポンティが「客観的思考」として斥けたものに他ならない。さらに、認知における身体の積極的な関与を認める一方で、世界を認知システムによって投射されたものとするような見方をも斥けている。このように主観主義と客観主義の二者択一を斥け entre-deux をさぐるというアプローチ自体も、メルロ=ポンティとの共通点をなしている。
本発表ではヴァレラらのEnactiveアプローチとメルロ=ポンティの知覚論・身体論との接点を明らかにすることを通じて、メルロ=ポンティの哲学がもつアクチュアリティを探ってゆくつもりである。
*Enaction理論に触れた日本語の文献は多くないが、『現代思想』1999年4月号に掲載されたヴァレラのインタビュー、「オートポイエーシスと現象学」に簡単な言及が見られる。
J.J.ギブソンの知覚論と存在論
河野 哲也(防衛大学校)
米国の知覚心理学者、J.J.ギブソンは、「反表象主義」の先駆者としてふたたび評価されている。「表象主義」とは、文字通りに認知とは外界を内的(脳内的)に表象することだという説で、現在の認知科学でひとつの主流をなしている。一方、ギブソンはこれに強く反対する立場をすでに七十年代に提出していた。彼によれば、知覚情報は構造化されたかたちで環境内に実在する。知覚者は環境内を動き回ながらその情報をピックアップするだけであり、そこに内的表象や構成の過程を想定する必要はない。このギブソンの「実在(直接知覚)論」は、近年表象主義への批判が高まるにつれ、関心の的となっている。
ところで、メルロ=ポンティが到達した知覚論も、じつはこのギブソンの立場に近いものだったのではないだろうか。彼にとっての知覚とは、すでに存在している環境から「私はできる」という運動能力によって対象を浮き彫りにしてゆく過程である。これはむしろ実在論と呼んでよい立場ではないだろうか。
本発表では、ギブソンの知覚論を今日の認知科学や心の哲学の観点から評価するとともに、彼の知覚論を支えている暗黙の存在論を明らかにし、それを擁護してゆきたい。
*参考文献として、ギブソン『生態学的視覚論』(古崎敬ほか訳、サイエンス社)とプリースト『心と身体の哲学』(河野哲也ほか訳、勁草書房)のとくに四章、結論をあげておきたい。
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