2025年8月5日
第31回研究大会プログラム
日時 2025年9月21日(日)
会場 東北大学川内キャンパス文科系総合研究棟
個人発表(202教室)
10:00-10:45
長島 慧治(東北大学)/司会:酒井 麻衣子
〈人間の科学〉の認識論:ピアジェのメルロ=ポンティ批判を検討する
10:50-11:35
家髙 洋(東北医科薬科大学)/司会:海老澤 礼人
『生産的思考』とメルロ=ポンティ
11:40-12:25
柳瀬 大輝(東京大学)/司会:加國 尚志
後期メルロ=ポンティにおける自然哲学と超越論哲学の関係
12:25-13:35 昼食+事務局会議(206教室)
13:35-14:05 総会(202教室)
14:10-14:55
佐藤 勇一(大東文化大学)/司会:川崎 唯史
メルロ=ポンティのマルロー読解をめぐって――1940年代後半を中心に
15:00-15:45
得能 想平(奈良先端科学技術大学院大学)/司会:本郷 均
メルロ=ポンティにおける「意味」概念再考——『知覚の現象学』を中心に
シンポジウム:「知覚と想像力」(202教室) 15:50-18:10
※JSPS科研費(基盤C, 25K03538)との共催
15:50-16:00
シンポジウム趣旨説明(澤田 哲生)
16:00-16:20
知覚か想像力か――メルロ=ポンティにおける現象学的想像力――
提題者 澤田 哲生
16:20-16:50
想像力と自然――メルロ=ポンティ『自然』講義とともに辿る、シェリングによるカントの継承――
提題者 長坂 真澄
16:50-17:20
野生の経験と幻覚的知覚――ドゥルーズ、メルロ゠ポンティ、知覚と想像力の地位――
提題者 小倉 拓也
17:20-18:10
質疑応答、全体討論
シンポジウム趣旨・概要
テーマ:「知覚と想像力」
概要:
長い現象学の伝統の文脈のなかで人間の行為を考える場合、多くの現象学者(フッサール、フィンク、サルトル、等々)は、知覚(現在:印象、感覚)と想像力(準現在:空想、像意識、想起、再想起、構想力、等々)を、機能面において厳密に区別し、双方に重要な役割を付与してきた。こうした思想史的な文脈のなかで、メルロ=ポンティは初期から後期まで一貫して、想像力に対する「知覚の優位性」を主張する。実際に、メルロ=ポンティは、古典的なイメージ理論(テーヌ、アラン)やサルトルが提唱した想像力の理論を強く批判する。ところが、『知覚の現象学』をはじめとした彼の諸著作を検証すると、想像力は知覚の外部に追いやられず、むしろ知覚行為に積極的に介在していることが確認できる。想像力は「知覚の優位性」に何をもたらすのだろうか。本シンポジウムでは、メルロ=ポンティの思想の側からこの問題を検討する。そして、その成果をメルロ=ポンティ以前と以後の観点から検討し直すことで、あらためてメルロ=ポンティの現象学を考察し直してみたい。
具体的な手順として、最初に、オーガナイザーの澤田がメルロ=ポンティによる想像力へのアプローチ(とりわけ『知覚の現象学』と『ソルボンヌ講義』)を検討する。次に、長坂真澄氏が、後期思想のメルロ=ポンティによるカントとシェリングへの言及を糸口として、構想力の現象学的な位相を提示する。最後に、小倉拓也氏がドゥルーズの講義草稿におけるメルロ=ポンティへの言及から、メルロ=ポンティ以後の現象学における知覚と想像力の展望を提示する。
提題(澤田):「知覚か想像力か――メルロ=ポンティにおける現象学的想像力――」
言うまでもない事実であるが、メルロ=ポンティの思想は、「知覚」を基盤とした現象学的哲学である。しかしよく考えてみると、「知覚の優位性」に彩られたその思想は、現象学運動史のなかできわめて特異な位置を占めている。なぜなら、多くの現象学者(フッサール、フィンク、サルトル、リシール、等々)は「現在」(印象、感覚、知覚)と「準現在」(空想、像意識、想起、等々)という区別を設けることで、知覚という行為を考察するのと同じていどに、準現在に組み入れられる想像的な諸現象も深く考察してきたからである。ところが――これがメルロ=ポンティの現象学のきわめて特異な点であるが――、メルロ=ポンティは「知覚の優位性」を認めつつも準現在の諸現象を否定するのでなく、むしろ準現在の諸経験をみずからの知覚理論に積極的に組み込もうとしてきた。『知覚の現象学』では、明らかに知覚の対象とならない経験(幻覚、妄想、神話、等々)がいくつも考察されている。翻って、知覚という行為そのものに注目するならば、メルロ=ポンティが、そこに想像的な脱現実化の作用(『知覚の現象学』)、さらにはその作用の情動的な性質(『ソルボンヌ講義』)を提示していることが確認される。
以上の背景から、本提題では、メルロ=ポンティの現象学における想像力の位相、その知覚との関係、さらにはその思想史上の特殊性を検討する。
提題(長坂):「想像力と自然――メルロ=ポンティ『自然』講義とともに辿る、シェリングによるカントの継承――」
「想像力が知覚自体の必然的な要素であるということに、いかなる心理学者もいまだかつて思い至らなかった」――カントは『純粋理性批判』において、想像力を認識に不可欠な綜合あるいは図式化の機能として提示する。メルロ=ポンティはコレージュ・ド・フランスの『自然』講義(1956-57)において、カントの「想像力」概念に着目する。しかし、メルロ=ポンティの独自性は、想像力を、客体の認識を可能にする機能としてのみならず、認識を越えるものを類推する機能としても論じる、『判断力批判』での議論を追った上で、さらに、その議論のシェリング『超越論的観念論の体系』における展開を辿ることにある。本提題は、メルロ=ポンティによるカント、シェリング読解を追いつつ、シェリングがカントの「想像力」概念をいかに継承し、カントとは異なる「自然」概念に到達するかを論じるものである。
メルロ=ポンティの議論から浮かび上がるのは、以下のシナリオである。カントによれば、「自然」は感性の対象であると同時に、悟性の対象でもあり、想像力は「自然」のうちに「意味」を読みとろうとする。しかし、自然の因果性と合目的性の間には二律背反があるため、カントは議論を物自体ではなく現象に制限する。対してシェリングは、「直観的悟性」を認めることへと踏み込む。彼は、本質に対する実存の優位を認め、存在は反省に先立つと考える。そのとき、反省の手前にある自然の野生性があらわとなる。
本提題ではこのシナリオを手がかりに、以下の行程を辿る。第一にカントにおける想像力と自然、第二にシェリングにおける想像力と自然をめぐる議論を辿った上で、メルロ=ポンティが現象学においてこれらの概念を継承することの意味を考察する。
提題(小倉):「野生の経験と幻覚的知覚――ドゥルーズ、メルロ゠ポンティ、知覚と想像力の地位――」
ドゥルーズは晩年の『襞』(1988年)において、ライプニッツの「微小表象」を論じる文脈で、「知覚は対象を持たないのだから、あらゆる知覚は幻覚的である」(PLB 125)と主張している。注目すべきは、『襞』では明示されていないが、そのもととなったライプニッツ講義では、ドゥルーズが「あらゆる知覚は幻覚的である」というテーゼを、現象学における知覚と想像力の地位を問いながら、「たとえばメルロ=ポンティが野生の経験と呼んだもの〔ce que Merleau-Ponty appelait, par exemple, l’expérience sauvage〕」(CV 19870317)を引き合いに出して提起しているということである。
ドゥルーズによれば、知覚と想像力は区別しえず、知覚は根本的に幻覚的であるが、現象学は、知覚と想像力を区別し、前者の優位を公準化することで、知覚が二次的にではなく根本的に幻覚的であるということを考えないできた。こうした文脈で、知覚と想像力の区別を相対化するはずのものとして、「メルロ=ポンティが野生の経験と呼んだもの」が召喚されるのである。しかし、晩年のドゥルーズがメルロ=ポンティに言及するときにはたいていそうであるように、その評価はかなり曖昧なものとなっている。
本発表では、「あらゆる知覚は幻覚的である」という『襞』のテーゼの内実を、ライプニッツ講義を参照しつつ、メルロ=ポンティ哲学とりわけ「野生の経験」との関係において明らかにすることを目指す。また、講義において、ドゥルーズは知覚と想像力の区別の手前には「まどろみ」、「夢うつつ」、「陶酔」、「眩暈」だけがあると述べているが、これはやはり、ドゥルーズのメルロ=ポンティ論に欠かせないシュトラウスとマルディネの存在を想起させる。そうした同時代の思想史的布置も念頭に本発表に取り組みたい。
略号一覧
PLB : Le pli. Leibniz et le baroque, Minuit, 1988
CV : Cours Vincennes ※Webdeleuze(https://www.webdeleuze.com/)とThe Deleuze Seminars(https://deleuze.cla.purdue.edu/)に依拠し、「CV講義年月日」で指示する。